kjohnのブログ

忘れないうちに書いて残しとく

『HearthStone』1.プレイ1日目~2日目

『HearthStone』、昨日twitterに流れてきてすぐに試してみたらチュートリアルの終盤で「これは面白い」と確信した。実は半年くらい前に一回やってチュートリアルの途中で投げてたんだけど、実はこの10月に日本語に対応していたらしく、今回はそれで飽きずにやり終えることができたっぽい。(ということは前やった時は英語を読むのが面倒でやめたってことかな)

 

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Hearthstone: ハースストーン公式ゲームサイト

 

まず先に言いたいのは「やるなら早いうちに始めたほうが良い」ということ。多分チュートリアルを終えるころにはこのゲームの面白さが実感できると思う。

 

スタートしてから今までやったこと

 とりあえず始めたら『ハースストーンひとくち新聞のご案内』なんていうものが。

と、

始めたばかりのプレイヤーが、カードをたくさん持っている古いプレイヤーをバタバタ倒していったら面白いと思いませんか? この入門講座で戦いかたのコツを身につければ、カードが揃っていなくても古参プレイヤーに勝てるようになります。

とか書いてある。そんなに簡単に強くなれるのか……と思いながらチュートリアルをやった。田中敦子さんの声が聴こえてきたのでバジェットがかかってそう=大きなコンテンツっぽい=今後も続きそうと思いつつ、チュートリアルを終えた後でWikiを見ると、

ハースストーン日本語Wiki HEARTHSTONE MANIAC - ハースストーン日本語wiki HEARTHSTONE MANIAC(ハースストーン・マニアック)

初めは「メイジ」を使って……、ここまでいったらこのデッキを組んで……と初めの数時間にすべきことが全部載ってる。もっと調べるとTrump先生というすごい人がいるらしい。ニコ動のこの動画を見てみた。

 

このTrump先生という人が「こうしてれば勝てます」的なことを言ってくるもんだから聞いててなんかもう勝てる気がしてくる。すぐ上位プレイヤーになれそうな気がしてくる。

 というわけでランク戦をやってみた。(1ゲーム長くても20分くらいなのでサクサク対戦が出来る。これ授業中にやるひととか居そう。)このゲーム、アイテム課金なのにスタミナ制ではないのでランク戦はいくらでもできる。ただ闘技場というやつに参加したりカードを購入するにはコインが必要らしく、そのコインはデイリークエストで入手できる。ここでまたWikiを見ると闘技場で3敗するまでに7勝すれば闘技場参加費を回収できるらしい。それって勝ち続ければ無課金でもガシガシ進められるってことじゃないか…。しかも闘技場のルールでは自分が現在所持しているカードとは別に参加時新たにカードを選んでデッキを組むので、そのときの進行状況は闘技場のデッキの強さとは無関係である。じゃあプレイングさえあれば始めたばかりでも長くプレイしている人と戦うこともできるし、勝つこともできるってことか。頑張ろう。

 

初日はこの辺で終わり。

次の日はメイジのレベル(?)をあげて今度は他のキャラクター(ヒーロー)のレベルをあげてみようと思い、どれから始めよかとおもってなんとなくローグとパラディンをちょこっと触って終了。

 

今後のちょっとした予想

このゲームこれからますます流行って新規プレイヤーが増えてくる。と思う。

だから少しでも先に経験を積んでおいてプレイングを上達したいなあ。あと多分自分のようにWikiかなんかを参考にしてメイジが増えると思うからメイジに対して勝てるようになりたい。あとPCでもスマホでも共通のデータで出来るらしい。すごい。

 

映画『ハーモニー』感想

公開初日に観ていたのですが、忙しかったのといまいち感想を書く気が起きず遅れてしまったのだけれど、感想。観に行ったのは18時の回で席は6割くらい埋まっていました。屍者の時は平日の午前中に行ったので少なかったけど、夜ならこのくらい入っていたのだろうか。

 

全体的な感想は「いまいち面白くなかった」という感じなんですが、とにかく画的な魅力が少ない。世界設定はセリフやモノローグでそのまま行われ、その間画面は建物や風景を映したり意味もなくカメラがぐるぐるまわったりしていてひたすらに退屈である。

視覚的な情報が少ないということは音声であるセリフを随時脳内で咀嚼し続けなければならないということなのでとても疲れる。この作品は『虐殺器官』後の世界という設定があり、『虐殺器官』内で起こる事件が『ハーモニー』において「大惨禍」として語られ、それがそもそも生府社会の成立に繋がっているのだが、『虐殺器官』と公開順が逆になってしまったのもあり、原作未読組には相当の集中力を要するだろうと思う。

まあこれが生府社会の退屈さとリンクしている(キャラクターがCGで描かれる部分があるのもこのためだろうか)とは言えなくもないけどそれは映像表現の限界を認めていることにはならないだろうか。

映像で表現されている生府社会のビジュアルについて、曲線で構成された生物的なデザインをしているんですが、これどんな理由でこんな設計がされるんだと思ったら、一応パンフレットの方に理由が説明されていました。ハードSFである本作ではこの点は非常に重要な点であります。特に説得力はなかったけれど……。螺旋監察官の会議とか老人たちの会議とかも全然意味のわからないビジュアルなので、あの世界においてああいったデザインにする利点が全くない。あと螺旋監察官の会議で流れてた世界の死亡リポートで銃を使ったらしい案件が表示されていたけど、あの世界で銃ってそんなに入手できるものなんだろうか。

あとスタッフロール後の主題歌が流れてきたときは本当に余韻を掻き消されて酷かった。ハーモニープログラム発動後の世界の映像はとても綺麗で良かったけれど、生府世界で意識(=言葉)を失ったあとで歌詞のついた歌を流されたので正直席を立って出て行ったほうが良かったのではと思うぐらいだった。

 

それからこれは個人的な好みの問題なのだけれど、この映画を観る前はどこかで『ファイト・クラブ』とか黒沢清的な演出を入れてくるのではないかと予想していて、例えばキアンの「えう」のシーンなんかは黒沢清風な長回しで来るんじゃないかと思ったら、普通にBGMで不安をたっぷり煽ってからの自殺になっていてがっかり。他も原作にあったちょっとしたネタはかなりカットされていて、結局テーマをなんとか伝えようと試みるだけで手一杯になっている映画化。という印象。

『MGSV:TPP』チコはなぜ死んだのか

チコはGZのラストでビックボスやメディックと共にヘリに乗っていたが、XOFによる襲撃によってヘリは墜落、生死不明だったがTPPで死亡したことが明示される(カセットテープより)。チコはTPP本編で姿を見せることもなかった。

なぜチコはこのような扱いになったのか。少し思いついたことを書いてみます。
 
チコが初登場するPWは小島監督が若い世代にも平和(Peace)について考えて欲しいという意図でデザインされている。そのために若い世代に人気のあるメタルギアシリーズにしては若いアニメ声優を起用するなどしている。そのなかでチコはスネーク(BIGBOSS)との出会いを通じて「大人に成ること」を学んでいく。FSLNの一員であるチコはまだ12歳であるにもかかわらず姉のアマンダとともに行動しているが、アマンダから子供扱いされることにコンプレックスを抱いていた。そんななか自分を一人の戦士として接してくれるスネークを尊敬し仲間となる決意をする。
 
チコは小島監督がターゲットとしていた若い世代がこの物語に感情移入しやすいように設計されたキャラクターのように思える。スネークを初めて知るチコの視点を通じてメタルギアシリーズに慣れ親しめるようにするためのキャラクターだ。(PWでは若いユーザーの手にとってもらえるように若い声優を起用したり、流血表現をなくしてレーティングを下げるなどの工夫もなされた。)
 
チコはアニメや漫画(特に少年誌)に出てくる少年のような印象がある。大人へのコンプレックスにしても好きな女の子(パス)を助けにひとりで敵地に向かうにしても行動が身勝手で単純過ぎる。
そしてチコの潜入は失敗する。敵に捕まり尋問では自分のあり方をスカルフェイスに子供らしい考えだと否定され、GZのラストでヘリは墜落し、チコは命を落とす。スネークたちが戦う世界はチコが思っているほど甘いものではなかった。
 
この結末によってスネークたちの戦場はチコのような甘い考えや意志の強さだけでは生き延びることのできない無慈悲な世界なのだと伝えようとしているように思える。チコはある種その証拠としてTPPの舞台から排除されたのではないだろうか。

ソシャゲが交流のきっかけになっている

男子大学生が新しい人脈をつくり始めるとき、共通の話題を探ってソシャゲの話になることが割りとある。大学生活においてスマホはなくてはならないものだし、LINEもやっているのはほぼ前提条件であって、出会った初日に「てかLINEやってる?」と聞くまでもなくいきなり「LINE教えて」と聞くほうがむしろ自然な流れである。

 

それに加えて今ではソシャゲが必需品とまではならないでも便利な話のタネにはなる。パズドラ、モンスト、白猫、スクフェス、デレステのうちからひとりにつき2種類くらいに手を出しているのが普通なので、それらのなかでお互いにプレイしているものがあればそれが共通の話題となる。ゲーム内でイベントやアップデートがあるたびに新たな話題が供給されるという点でも便利なところだ。

携帯ゲームが以前からコミュニケーションツールとしても機能していたが、今ではソシャゲも携帯ゲームと同様コミュニケーションツールとしての立場を確立しつつある。ソシャゲなら携帯ゲームと違ってスマホされあれば基本無料で出来て、「大学にゲーム機を持ってくるほど意欲がある」さまを晒さずに済み(これは大学生にとって非常に大事なことだと思う)、サッとスマホを取り出してさりげなくプレイできるのも優れている。

おそらくどこの大学でも同様のことが起きているんだろうと思う。

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その2

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈は大半の者には理解ができない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできる物以外はね。物語はわたしたちの愚かさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.96 

 

「人間は物事を物語として理解する。暗号が具体的にどんな強引な方法で解かれたかは問題じゃない。誰が解いたことにしたほうが面白いか、書かれているとされる内容がいかに刺激的かが重要なんだ」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.266

 

「人間は物語を通じて物事を理解する」というのは『屍者の帝国』で語られたテーマの1つであり、映画版の制作における改変はこれを踏まえた上で行われたと思う。だったらあの映画版は観客が理解できるように物語を作られたと考えるべきなのか。もしそうなら終盤の展開は決して容易に理解できる物語ではないのであまりうまくいてないような気がする。うーん……。

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その1

10月2日に公開され、当日に観てきました。初回でしたが平日の午前中なのもあってかお客さんは30人程度で、ほぼみんな20代っぽかった。

 

まず映像的に思ったのは屍者の動きがとても良いと言うこと。本作では屍者が大量に出てくるところ、アフガン・カイバル峠での屍者同士の戦闘などでは3DCGが利用されているんですが、ここの屍者の動きが「ちゃんと」気味が悪くて良かった。屍者の動きは体の部位同士が連動していないらしい動きをするせいで不気味の谷現象を起こし、生者とは明らかに異なる気味の悪い挙動を起こすわけなのですが、これが手書きアニメの中に混じっている3DCGの異質さとちょうどマッチしており、屍者のいる戦場の風景というのはこんな感じなんだという説得力がありました。

 あと、日本で相撲を見るシーンは屍者との身体の挙動の対比なのかなと思うなど。

 

 

それで、次が本題。

そもそも『屍者の帝国』は、原作小説が書かれた背景が重要で、それは映画『屍者の帝国』でも同じで、またこの作品は「ハードSF作品」であって、細かい設定がもりだくさんである。なので映画化するにあたって結構内容を削ったりキャラクターの関係が変更されたりしていて、とくにSF的な説明や主題等、原作で繰り返された説明が映画では1度しかセリフで言ってくれないものもあるので原作未読者は観るにあたっては2時間集中していないと何が起こっているのかわけがわからない事態に陥る気がする。

それからノイタミナの企画した「Project Itoh」について思うこともあるけどここではそれは一旦脇におき。

 

原作小説『屍者の帝国』で、ワトソンとフライデーの関係は伊藤計劃円城塔の関係に当てはめることができるようになっていて、ワトソン(伊藤計劃)の活躍を傍でみていたフライデー(円城塔)による記録が小説『屍者の帝国』だった。

映画では関係は入れ替わって生者のワトソンが円城塔、屍者のフライデーが伊藤計劃として読み取れるようになっていて、亡くなった親友フライデーの魂を求めてワトソンが旅をするという形になっていた。おまけにBLになった。

映画化するにあたって尺を2時間で収めるという制約があったなか、原作よりもワトソンに直接的でわかりやすい動機を与えたかったのだと思うけれど、それでも伊藤計劃円城塔の関係への意識は残しておくということを成しているわけで、それだけでもう自分としては良くやったと思いもするんですが。(円城塔としては映画版のワトソンとフライデーの関係は思いつかなかったことらしい。そりゃあBLになっちゃうからな…)

 

いわゆる原作改変というものは個人的には許容しているですが、魂と意識の物語というよりもっと個人的なBLの物語っぽくなっているところ。これを良しとするか正直自分のなかでも迷う部分ではある。

『フォックスキャッチャー』 感想

 この前『フォックスキャッチャー』のレンタルが始まっていたので借りて観てみました。以下感想など。

 

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http://www.foxcatcher-movie.jp/

 

兄弟揃って金メダリストなのに兄だけが世間から評価されていて、弟のマーク・シュルツが全然世間に認知されていないのが悲しい。兄の代理で講演に行けば誰も興味なさげだし、講演料の支払いの時には名前を兄と間違えられる。そんなわけで兄へのコンプレックスが溜まりまくってるわけで(しかも兄のデイブ・シュルツはめちゃくちゃいい人なのもつらい。兄が所帯持ちで弟が独身なのもつらい)、今度のソウル・オリンピックでまた金メダルを穫って今度こそ世間に認められたい…と思っていたところなので、そこに大富豪に協力を申し出られたら弟からしてみればまさに渡りに船というやつで、そりゃあ誰でも喜んでOKすると思う。

 あまり夢の様な話を弟から聞いた兄が心配する素振りをしたのも実は逆効果だったような気がする。兄弟は幼少期から2人で過ごしてきて兄が父の代わりもしてきたので弟の事を心配するのは当然だと思うけれど、弟としてはこの時点で既に兄の助けを借りずに成功したいという思いもあった。

 

シュルツを援助するジョン・デュポンの場合、親がいなかったのシュルツと反対に母親が強すぎたことが問題だった。母親が好きな馬の趣味はジョンは嫌いでジョンが好きなレスリングは母親が嫌っている。さらに友人には母親からお金が渡されていたという過去があり、友人と呼べる人間はほとんどいないように伺える。ジョンがマーク・シュルツを呼んだのは友人が欲しかったからでもあったと思う。

 ジョンの、アメリカへのこだわりが伺える部分が幾つもあった。フォックスキャッチャーで、選手たちにやたらとアメリカの力を世界に見せつけろと激をとばすし、マークに読ませた自作のスピーチでは自身を博愛主義者と呼ばせていた。それから彼の異名の「イーグル」(鷹)はアメリカの国鳥である(ジョンがアメリカのメタファーだったりするのかな)。あとジョンが鷲鼻。ちなみに鷲鼻は英語でAquiline noseともいい、Aquilineは鷲のような、という意味らしい。

 ジョンのフォックスキャッチャーへの大きな原動力は母親と世間、とりわけアメリカからの認められたいという欲求で、母親が一度レスリングの練習を見に来たとき、急にジョンが急にコーチぶってチームを指導する姿を見せつけようとするシーンがある(でも内容が今更教わるまでもない基礎中の基礎で選手たちは引いてるし、母親もすぐ帰っちゃってかわいそう)。 

 

などなど考えながら、優秀な兄弟の弟と、財閥の御曹司という、どことなく似た境遇の2人に感情移入しながら観ていた。

最後の結末は悲しいとしか言い様がない。

 

あと本作中はBGMがほとんどないんだけど、そんな中で流れる2つの劇中歌はそのシーンと合っていてとても良かったです。