kjohnのブログ

忘れないうちに書いて残しとく

『MGSV:TPP』チコはなぜ死んだのか

チコはGZのラストでビックボスやメディックと共にヘリに乗っていたが、XOFによる襲撃によってヘリは墜落、生死不明だったがTPPで死亡したことが明示される(カセットテープより)。チコはTPP本編で姿を見せることもなかった。

なぜチコはこのような扱いになったのか。少し思いついたことを書いてみます。
 
チコが初登場するPWは小島監督が若い世代にも平和(Peace)について考えて欲しいという意図でデザインされている。そのために若い世代に人気のあるメタルギアシリーズにしては若いアニメ声優を起用するなどしている。そのなかでチコはスネーク(BIGBOSS)との出会いを通じて「大人に成ること」を学んでいく。FSLNの一員であるチコはまだ12歳であるにもかかわらず姉のアマンダとともに行動しているが、アマンダから子供扱いされることにコンプレックスを抱いていた。そんななか自分を一人の戦士として接してくれるスネークを尊敬し仲間となる決意をする。
 
チコは小島監督がターゲットとしていた若い世代がこの物語に感情移入しやすいように設計されたキャラクターのように思える。スネークを初めて知るチコの視点を通じてメタルギアシリーズに慣れ親しめるようにするためのキャラクターだ。(PWでは若いユーザーの手にとってもらえるように若い声優を起用したり、流血表現をなくしてレーティングを下げるなどの工夫もなされた。)
 
チコはアニメや漫画(特に少年誌)に出てくる少年のような印象がある。大人へのコンプレックスにしても好きな女の子(パス)を助けにひとりで敵地に向かうにしても行動が身勝手で単純過ぎる。
そしてチコの潜入は失敗する。敵に捕まり尋問では自分のあり方をスカルフェイスに子供らしい考えだと否定され、GZのラストでヘリは墜落し、チコは命を落とす。スネークたちが戦う世界はチコが思っているほど甘いものではなかった。
 
この結末によってスネークたちの戦場はチコのような甘い考えや意志の強さだけでは生き延びることのできない無慈悲な世界なのだと伝えようとしているように思える。チコはある種その証拠としてTPPの舞台から排除されたのではないだろうか。

ソシャゲが交流のきっかけになっている

男子大学生が新しい人脈をつくり始めるとき、共通の話題を探ってソシャゲの話になることが割りとある。大学生活においてスマホはなくてはならないものだし、LINEもやっているのはほぼ前提条件であって、出会った初日に「てかLINEやってる?」と聞くまでもなくいきなり「LINE教えて」と聞くほうがむしろ自然な流れである。

 

それに加えて今ではソシャゲが必需品とまではならないでも便利な話のタネにはなる。パズドラ、モンスト、白猫、スクフェス、デレステのうちからひとりにつき2種類くらいに手を出しているのが普通なので、それらのなかでお互いにプレイしているものがあればそれが共通の話題となる。ゲーム内でイベントやアップデートがあるたびに新たな話題が供給されるという点でも便利なところだ。

携帯ゲームが以前からコミュニケーションツールとしても機能していたが、今ではソシャゲも携帯ゲームと同様コミュニケーションツールとしての立場を確立しつつある。ソシャゲなら携帯ゲームと違ってスマホされあれば基本無料で出来て、「大学にゲーム機を持ってくるほど意欲がある」さまを晒さずに済み(これは大学生にとって非常に大事なことだと思う)、サッとスマホを取り出してさりげなくプレイできるのも優れている。

おそらくどこの大学でも同様のことが起きているんだろうと思う。

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その2

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈は大半の者には理解ができない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできる物以外はね。物語はわたしたちの愚かさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.96 

 

「人間は物事を物語として理解する。暗号が具体的にどんな強引な方法で解かれたかは問題じゃない。誰が解いたことにしたほうが面白いか、書かれているとされる内容がいかに刺激的かが重要なんだ」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.266

 

「人間は物語を通じて物事を理解する」というのは『屍者の帝国』で語られたテーマの1つであり、映画版の制作における改変はこれを踏まえた上で行われたと思う。だったらあの映画版は観客が理解できるように物語を作られたと考えるべきなのか。もしそうなら終盤の展開は決して容易に理解できる物語ではないのであまりうまくいてないような気がする。うーん……。

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その1

10月2日に公開され、当日に観てきました。初回でしたが平日の午前中なのもあってかお客さんは30人程度で、ほぼみんな20代っぽかった。

 

まず映像的に思ったのは屍者の動きがとても良いと言うこと。本作では屍者が大量に出てくるところ、アフガン・カイバル峠での屍者同士の戦闘などでは3DCGが利用されているんですが、ここの屍者の動きが「ちゃんと」気味が悪くて良かった。屍者の動きは体の部位同士が連動していないらしい動きをするせいで不気味の谷現象を起こし、生者とは明らかに異なる気味の悪い挙動を起こすわけなのですが、これが手書きアニメの中に混じっている3DCGの異質さとちょうどマッチしており、屍者のいる戦場の風景というのはこんな感じなんだという説得力がありました。

 あと、日本で相撲を見るシーンは屍者との身体の挙動の対比なのかなと思うなど。

 

 

それで、次が本題。

そもそも『屍者の帝国』は、原作小説が書かれた背景が重要で、それは映画『屍者の帝国』でも同じで、またこの作品は「ハードSF作品」であって、細かい設定がもりだくさんである。なので映画化するにあたって結構内容を削ったりキャラクターの関係が変更されたりしていて、とくにSF的な説明や主題等、原作で繰り返された説明が映画では1度しかセリフで言ってくれないものもあるので原作未読者は観るにあたっては2時間集中していないと何が起こっているのかわけがわからない事態に陥る気がする。

それからノイタミナの企画した「Project Itoh」について思うこともあるけどここではそれは一旦脇におき。

 

原作小説『屍者の帝国』で、ワトソンとフライデーの関係は伊藤計劃円城塔の関係に当てはめることができるようになっていて、ワトソン(伊藤計劃)の活躍を傍でみていたフライデー(円城塔)による記録が小説『屍者の帝国』だった。

映画では関係は入れ替わって生者のワトソンが円城塔、屍者のフライデーが伊藤計劃として読み取れるようになっていて、亡くなった親友フライデーの魂を求めてワトソンが旅をするという形になっていた。おまけにBLになった。

映画化するにあたって尺を2時間で収めるという制約があったなか、原作よりもワトソンに直接的でわかりやすい動機を与えたかったのだと思うけれど、それでも伊藤計劃円城塔の関係への意識は残しておくということを成しているわけで、それだけでもう自分としては良くやったと思いもするんですが。(円城塔としては映画版のワトソンとフライデーの関係は思いつかなかったことらしい。そりゃあBLになっちゃうからな…)

 

いわゆる原作改変というものは個人的には許容しているですが、魂と意識の物語というよりもっと個人的なBLの物語っぽくなっているところ。これを良しとするか正直自分のなかでも迷う部分ではある。

『フォックスキャッチャー』 感想

 この前『フォックスキャッチャー』のレンタルが始まっていたので借りて観てみました。以下感想など。

 

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http://www.foxcatcher-movie.jp/

 

兄弟揃って金メダリストなのに兄だけが世間から評価されていて、弟のマーク・シュルツが全然世間に認知されていないのが悲しい。兄の代理で講演に行けば誰も興味なさげだし、講演料の支払いの時には名前を兄と間違えられる。そんなわけで兄へのコンプレックスが溜まりまくってるわけで(しかも兄のデイブ・シュルツはめちゃくちゃいい人なのもつらい。兄が所帯持ちで弟が独身なのもつらい)、今度のソウル・オリンピックでまた金メダルを穫って今度こそ世間に認められたい…と思っていたところなので、そこに大富豪に協力を申し出られたら弟からしてみればまさに渡りに船というやつで、そりゃあ誰でも喜んでOKすると思う。

 あまり夢の様な話を弟から聞いた兄が心配する素振りをしたのも実は逆効果だったような気がする。兄弟は幼少期から2人で過ごしてきて兄が父の代わりもしてきたので弟の事を心配するのは当然だと思うけれど、弟としてはこの時点で既に兄の助けを借りずに成功したいという思いもあった。

 

シュルツを援助するジョン・デュポンの場合、親がいなかったのシュルツと反対に母親が強すぎたことが問題だった。母親が好きな馬の趣味はジョンは嫌いでジョンが好きなレスリングは母親が嫌っている。さらに友人には母親からお金が渡されていたという過去があり、友人と呼べる人間はほとんどいないように伺える。ジョンがマーク・シュルツを呼んだのは友人が欲しかったからでもあったと思う。

 ジョンの、アメリカへのこだわりが伺える部分が幾つもあった。フォックスキャッチャーで、選手たちにやたらとアメリカの力を世界に見せつけろと激をとばすし、マークに読ませた自作のスピーチでは自身を博愛主義者と呼ばせていた。それから彼の異名の「イーグル」(鷹)はアメリカの国鳥である(ジョンがアメリカのメタファーだったりするのかな)。あとジョンが鷲鼻。ちなみに鷲鼻は英語でAquiline noseともいい、Aquilineは鷲のような、という意味らしい。

 ジョンのフォックスキャッチャーへの大きな原動力は母親と世間、とりわけアメリカからの認められたいという欲求で、母親が一度レスリングの練習を見に来たとき、急にジョンが急にコーチぶってチームを指導する姿を見せつけようとするシーンがある(でも内容が今更教わるまでもない基礎中の基礎で選手たちは引いてるし、母親もすぐ帰っちゃってかわいそう)。 

 

などなど考えながら、優秀な兄弟の弟と、財閥の御曹司という、どことなく似た境遇の2人に感情移入しながら観ていた。

最後の結末は悲しいとしか言い様がない。

 

あと本作中はBGMがほとんどないんだけど、そんな中で流れる2つの劇中歌はそのシーンと合っていてとても良かったです。

『MGSV:TPP』ドラマ的な構成

今作は50まであるエピソード(Episode)の始まりと終わりに、キャストとスタッフのクレジットが出る。これは明らかにTVドラマの影響で(特に海外ドラマに近い)、これと合わせてエピソード31まで終えるのに40時間かかった自分の体験からすると、エピソード1つにつき1時間程度のボリュームになるようにデザインされていたのだと思う。

ストーリーのを細かく分けてミッション制にしたのは『MGSPW』からだけれど、この構成をドラマシリーズのように扱うことにしたのは上手いと思うし、各エピソード(ミッション)で達成目標があって、その上ちゃんと毎回のエピソードで全体のストーリーも進行していくというところにも、ドラマシリーズらしさを感じる。

レビューで「やめどきが見つからない」というのをよく見たけれど、それは今作がドラマ的な構成を取っているからだと思う。

物語の時間軸の長さとスケール

論理的な説明があるわけでもないけど思いついたことを文章にしてみただけの話。

 

普段小説やなんかを呼んだりする中で、スケールの大きな話。というときにイメージするのはその話で語られる事象が起きた場の広さ(街全体か、国全体か、あるいは地球全体や、宇宙全体の場合もある)が大きい話を指すとなんとなく思っていた。

 

でも自分の中では スケールの大きな話=物語の舞台の大きさ とするのは、これまたなんとなくすっきりしないというか、違和感があった。

それで考えたのは物語のスケールとは「物語の起きる場大きさ」(空間的スケール)と「物語の時間的な長さ」(時間的スケール)で決まるのでは。ということ。「物語の時間的な長さ」とは、その物語の中で描写される事象の始まりから終わりまでの長さということを指し、その作品の長さ(書籍だと何冊かとか何文字だとか)や語られる長さ(10分とか2時間とか)ではない。

 

例えば「ある街の、ある1日の物語」と「ある街の、ある1年の物語」だと1年の物語と聞くと、なんだか「スケールが大きい」っぽい気がする。

長い話って例えば何なんだろうと考えると、普段目にするような作品で自分が思いついたものだと『2001年宇宙の旅』人類が誕生してからより上位の存在となるまででだいたい300万年から400万年くらい?で結構長いと思う。『魔法少女まどか☆マギカ』もインキュベーターが人類文明に関わってくるし同じくらい長いか。『火の鳥』もだいぶ長い物語だ。あと宇宙史は問答無用で最も長い話だけれど、それは普段触れることのない物語じゃないし、あまり面白くないのでここではとりあえず考えないでおく。

 

自分がある物語に触れるとき、基本的にそれがスケールの大きな話だとそれだけで楽しいけど、もうひとつ重要なのはスケールの大きさの表現の速度(という言い方しか思いつかなかった)だと思う。

スケールの大きさの表現の速度。時間的スケールで言うなら『2001年宇宙の旅』でヒトザルが骨を空に投げてから人工衛星のカットに繋がるのでこの2カットで数百万年が過ぎる。 (カット間で数百万年が過ぎるとはとんでもない速さだ。)回想や前日譚だと物語のスケールが過去方向に拡大する。物語にふれいている時、回想や前日譚を知ることによってある種の衝撃を受けるのはスケールの拡大を感じていることが一つの要因だと思う。伏線が後に明らかになった時の衝撃も似た感触な気がする。

それから推測だけど、スケールの大きな話っていうのは空間的にしろ時間的にしろ大きければ大きいほど作者としては語るのが大変そう。