kjohnのブログ

忘れないうちに書いて残しとく

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その2

「人間には物語が必要なのです。血沸き、肉躍る物語がね。大体、そんな理屈は大半の者には理解ができない。理解できないものは存在しない。手で触れ、見ることのできる物以外はね。物語はわたしたちの愚かさから生まれ、痴愚を肯定し続ける」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.96 

 

「人間は物事を物語として理解する。暗号が具体的にどんな強引な方法で解かれたかは問題じゃない。誰が解いたことにしたほうが面白いか、書かれているとされる内容がいかに刺激的かが重要なんだ」

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』p.266

 

「人間は物語を通じて物事を理解する」というのは『屍者の帝国』で語られたテーマの1つであり、映画版の制作における改変はこれを踏まえた上で行われたと思う。だったらあの映画版は観客が理解できるように物語を作られたと考えるべきなのか。もしそうなら終盤の展開は決して容易に理解できる物語ではないのであまりうまくいてないような気がする。うーん……。

映画『屍者の帝国』感想のようなもの その1

10月2日に公開され、当日に観てきました。初回でしたが平日の午前中なのもあってかお客さんは30人程度で、ほぼみんな20代っぽかった。

 

まず映像的に思ったのは屍者の動きがとても良いと言うこと。本作では屍者が大量に出てくるところ、アフガン・カイバル峠での屍者同士の戦闘などでは3DCGが利用されているんですが、ここの屍者の動きが「ちゃんと」気味が悪くて良かった。屍者の動きは体の部位同士が連動していないらしい動きをするせいで不気味の谷現象を起こし、生者とは明らかに異なる気味の悪い挙動を起こすわけなのですが、これが手書きアニメの中に混じっている3DCGの異質さとちょうどマッチしており、屍者のいる戦場の風景というのはこんな感じなんだという説得力がありました。

 あと、日本で相撲を見るシーンは屍者との身体の挙動の対比なのかなと思うなど。

 

 

それで、次が本題。

そもそも『屍者の帝国』は、原作小説が書かれた背景が重要で、それは映画『屍者の帝国』でも同じで、またこの作品は「ハードSF作品」であって、細かい設定がもりだくさんである。なので映画化するにあたって結構内容を削ったりキャラクターの関係が変更されたりしていて、とくにSF的な説明や主題等、原作で繰り返された説明が映画では1度しかセリフで言ってくれないものもあるので原作未読者は観るにあたっては2時間集中していないと何が起こっているのかわけがわからない事態に陥る気がする。

それからノイタミナの企画した「Project Itoh」について思うこともあるけどここではそれは一旦脇におき。

 

原作小説『屍者の帝国』で、ワトソンとフライデーの関係は伊藤計劃円城塔の関係に当てはめることができるようになっていて、ワトソン(伊藤計劃)の活躍を傍でみていたフライデー(円城塔)による記録が小説『屍者の帝国』だった。

映画では関係は入れ替わって生者のワトソンが円城塔、屍者のフライデーが伊藤計劃として読み取れるようになっていて、亡くなった親友フライデーの魂を求めてワトソンが旅をするという形になっていた。おまけにBLになった。

映画化するにあたって尺を2時間で収めるという制約があったなか、原作よりもワトソンに直接的でわかりやすい動機を与えたかったのだと思うけれど、それでも伊藤計劃円城塔の関係への意識は残しておくということを成しているわけで、それだけでもう自分としては良くやったと思いもするんですが。(円城塔としては映画版のワトソンとフライデーの関係は思いつかなかったことらしい。そりゃあBLになっちゃうからな…)

 

いわゆる原作改変というものは個人的には許容しているですが、魂と意識の物語というよりもっと個人的なBLの物語っぽくなっているところ。これを良しとするか正直自分のなかでも迷う部分ではある。

『フォックスキャッチャー』 感想

 この前『フォックスキャッチャー』のレンタルが始まっていたので借りて観てみました。以下感想など。

 

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http://www.foxcatcher-movie.jp/

 

兄弟揃って金メダリストなのに兄だけが世間から評価されていて、弟のマーク・シュルツが全然世間に認知されていないのが悲しい。兄の代理で講演に行けば誰も興味なさげだし、講演料の支払いの時には名前を兄と間違えられる。そんなわけで兄へのコンプレックスが溜まりまくってるわけで(しかも兄のデイブ・シュルツはめちゃくちゃいい人なのもつらい。兄が所帯持ちで弟が独身なのもつらい)、今度のソウル・オリンピックでまた金メダルを穫って今度こそ世間に認められたい…と思っていたところなので、そこに大富豪に協力を申し出られたら弟からしてみればまさに渡りに船というやつで、そりゃあ誰でも喜んでOKすると思う。

 あまり夢の様な話を弟から聞いた兄が心配する素振りをしたのも実は逆効果だったような気がする。兄弟は幼少期から2人で過ごしてきて兄が父の代わりもしてきたので弟の事を心配するのは当然だと思うけれど、弟としてはこの時点で既に兄の助けを借りずに成功したいという思いもあった。

 

シュルツを援助するジョン・デュポンの場合、親がいなかったのシュルツと反対に母親が強すぎたことが問題だった。母親が好きな馬の趣味はジョンは嫌いでジョンが好きなレスリングは母親が嫌っている。さらに友人には母親からお金が渡されていたという過去があり、友人と呼べる人間はほとんどいないように伺える。ジョンがマーク・シュルツを呼んだのは友人が欲しかったからでもあったと思う。

 ジョンの、アメリカへのこだわりが伺える部分が幾つもあった。フォックスキャッチャーで、選手たちにやたらとアメリカの力を世界に見せつけろと激をとばすし、マークに読ませた自作のスピーチでは自身を博愛主義者と呼ばせていた。それから彼の異名の「イーグル」(鷹)はアメリカの国鳥である(ジョンがアメリカのメタファーだったりするのかな)。あとジョンが鷲鼻。ちなみに鷲鼻は英語でAquiline noseともいい、Aquilineは鷲のような、という意味らしい。

 ジョンのフォックスキャッチャーへの大きな原動力は母親と世間、とりわけアメリカからの認められたいという欲求で、母親が一度レスリングの練習を見に来たとき、急にジョンが急にコーチぶってチームを指導する姿を見せつけようとするシーンがある(でも内容が今更教わるまでもない基礎中の基礎で選手たちは引いてるし、母親もすぐ帰っちゃってかわいそう)。 

 

などなど考えながら、優秀な兄弟の弟と、財閥の御曹司という、どことなく似た境遇の2人に感情移入しながら観ていた。

最後の結末は悲しいとしか言い様がない。

 

あと本作中はBGMがほとんどないんだけど、そんな中で流れる2つの劇中歌はそのシーンと合っていてとても良かったです。

『MGSV:TPP』ドラマ的な構成

今作は50まであるエピソード(Episode)の始まりと終わりに、キャストとスタッフのクレジットが出る。これは明らかにTVドラマの影響で(特に海外ドラマに近い)、これと合わせてエピソード31まで終えるのに40時間かかった自分の体験からすると、エピソード1つにつき1時間程度のボリュームになるようにデザインされていたのだと思う。

ストーリーのを細かく分けてミッション制にしたのは『MGSPW』からだけれど、この構成をドラマシリーズのように扱うことにしたのは上手いと思うし、各エピソード(ミッション)で達成目標があって、その上ちゃんと毎回のエピソードで全体のストーリーも進行していくというところにも、ドラマシリーズらしさを感じる。

レビューで「やめどきが見つからない」というのをよく見たけれど、それは今作がドラマ的な構成を取っているからだと思う。

物語の時間軸の長さとスケール

論理的な説明があるわけでもないけど思いついたことを文章にしてみただけの話。

 

普段小説やなんかを呼んだりする中で、スケールの大きな話。というときにイメージするのはその話で語られる事象が起きた場の広さ(街全体か、国全体か、あるいは地球全体や、宇宙全体の場合もある)が大きい話を指すとなんとなく思っていた。

 

でも自分の中では スケールの大きな話=物語の舞台の大きさ とするのは、これまたなんとなくすっきりしないというか、違和感があった。

それで考えたのは物語のスケールとは「物語の起きる場大きさ」(空間的スケール)と「物語の時間的な長さ」(時間的スケール)で決まるのでは。ということ。「物語の時間的な長さ」とは、その物語の中で描写される事象の始まりから終わりまでの長さということを指し、その作品の長さ(書籍だと何冊かとか何文字だとか)や語られる長さ(10分とか2時間とか)ではない。

 

例えば「ある街の、ある1日の物語」と「ある街の、ある1年の物語」だと1年の物語と聞くと、なんだか「スケールが大きい」っぽい気がする。

長い話って例えば何なんだろうと考えると、普段目にするような作品で自分が思いついたものだと『2001年宇宙の旅』人類が誕生してからより上位の存在となるまででだいたい300万年から400万年くらい?で結構長いと思う。『魔法少女まどか☆マギカ』もインキュベーターが人類文明に関わってくるし同じくらい長いか。『火の鳥』もだいぶ長い物語だ。あと宇宙史は問答無用で最も長い話だけれど、それは普段触れることのない物語じゃないし、あまり面白くないのでここではとりあえず考えないでおく。

 

自分がある物語に触れるとき、基本的にそれがスケールの大きな話だとそれだけで楽しいけど、もうひとつ重要なのはスケールの大きさの表現の速度(という言い方しか思いつかなかった)だと思う。

スケールの大きさの表現の速度。時間的スケールで言うなら『2001年宇宙の旅』でヒトザルが骨を空に投げてから人工衛星のカットに繋がるのでこの2カットで数百万年が過ぎる。 (カット間で数百万年が過ぎるとはとんでもない速さだ。)回想や前日譚だと物語のスケールが過去方向に拡大する。物語にふれいている時、回想や前日譚を知ることによってある種の衝撃を受けるのはスケールの拡大を感じていることが一つの要因だと思う。伏線が後に明らかになった時の衝撃も似た感触な気がする。

それから推測だけど、スケールの大きな話っていうのは空間的にしろ時間的にしろ大きければ大きいほど作者としては語るのが大変そう。

『MGSV:TPP』冒頭の病院のシーンについて

『MGSV:TPP』の冒頭、XOFの襲撃から、エイハブがイシュマエルに導かれて逃げるシーン、エイハブは9年間昏睡状態だったので初めはうまく歩けずに床を這って進み、次第に足で歩けるようになっていくわけだけど、これは多分、人間の誕生と重ねているんだと思う。

 

ゼロ・グラビティ』のラストでも、地球に帰還したライアンが水の中から這って出てきて重力に抗うように立ち上がったあのシーンと同じように。

 

 2015-09-14追記

ゼロ・グラビティ』の最後は生物の進化のメタファー(海から陸へ、さらに直立二足歩行へ)でもあると誰かが言っていた気がする。それで即座に思い出すののはメタルギア サヘラントロプスはシリーズ初の直立二足歩行だったこと。病院のシーンも「直立二足歩行への進化」を意識しているのだろうか(ちなみにローンチトレーラーや発売前後の小島監督のツイートでも「進化」という単語はしばしば見られた。

『MGSV:TPP』クリアしたので軽く感想を

METAL GEAR SOLID V:THE PHANTOM PAIN』(メタルギアソリッドV:ファントムペイン)の本編ネタバレを含みます。

 

 

 

 

 発売日直前にこんな記事を書き、発売日を迎え、1週間かけてシナリオをクリアしたので(達成率はまだ50%くらいだけれど)ちょっと思っていることなど。この記事は個人的な思いを書くということにしておいて作品の考察とかは別の記事にしようと思う。

kjohn.hatenablog.com

 

主人公について

まず、小島監督はゲームを創る上で映画的な演出を用いることで評価されているわけだけど、それでも絶対に忘れないのはあくまでも作品が「映画」ではなく「ゲーム」であるということである。

つまりゲームは映画と違ってプレイヤーが実際にキャラクターを動かすので作品への没入感が映画とは異なる。映画はある視点から映像を観ることになるのでどちらかと言うと視聴者はストーリーの「目撃者」に似た形で追体験することになるが、ゲームだとプレイヤーの操作がそのままキャラクターの行動になるのでプレイヤーは「目撃者」というよりも「当事者」に近い形になる。

 

メタルギア』シリーズでもこれを意識させられる仕掛けは多く、VR訓練や『MGS4』における『MGO』を通した体験のような「ゲームによる体験」が本編の内容に関わっているというものがたくさんある。

その最たる例と言えるものが『MGS2』そのものだったわけで、主人公の雷電というのはゲームのプレイヤーそのものだった。

 

それで今回の『MGSV:TPP』ではどうだったかというと、「Episode 46 世界を打った男たちの真実」で今作の主人公の「ヴェノム・スネーク」が本当のBIGBOSSではなく、BIGBOSSを守るための影武者だったことが明かされる。この瞬間プレイヤーは自分が操作してきたキャラクターがBIGBOSSじゃなかったことについて落胆だとか怒りだとかいったネガティブな感情を抱くことになると思う。だが、これはその直後の「ヴェノム・スネーク」もまたBIGBOSSであるというBIGBOSSの宣言によってフォローされる。この展開について否定的な意見もあるらしいが、自分は実にゲーム的でよかったと思う。なぜならプレイヤーはゲームを通じて実際にBIGBOSSとして振る舞う(ゲームをクリアする)ことに成功しているからだ。プレイヤーが本編をクリアできたということがこの展開が論理的に無理のないものであるという一番の証明になる。

この構造はこの作品がゲームであることで可能となるギミックだと思うし。『MGS2』でのソリッド・スネーク雷電の関係を『MGSV:TPP』でBIGBOSSとゲームのプレイヤーでもって行うことでよりプレイヤーを巻き込む形に進化していてこの時点で自分は今作は最高のゲームであると確信した。

 

(もし)シリーズ最終作だとしたらどうか

発売日直前にA HIDEO KOJIMA GAMEのメタルギアはこれで最後になるんじゃないだろうかと不安になっていた自分としては、もしそうであるなら今作によってメタルギアサーガの円環が完全に閉じることを期待していた。

発売時はメタルギアサーガの最後のミッシングリンクだとかシリーズ最大の謎が明らかになるとか宣伝されていたけれど、自分としては今作は正直その点に焦点が当てられているようには感じなかった。というかEpisode 51が本編未収録で製作途中の段階のものが別に収録されていたり、トレイラーで使われていたシーンで本編に出て来ていないシーンがあったりしていたことから、実はゲーム化されていないシナリオがあるんじゃないかと思っている。

Episode46の最後で「ヴェノム・スネーク」(あるいはもう一人のBIGBOSS)がMSXに「operation intrude n313」(operation intrude n313は『METAL GEAR』にてスネークに与えられた作戦のコードネーム)と書かれたテープをセットして初代『METAL GEAR』に繋がるというオチだったが、この、「ヴェノム・スネーク」が真実を知ってからのところが短い気がしたし、宣伝で言われていた「最大の謎」はむしろここからであって、それをじっくり扱わないでこれで終わりとするのは物足りない感じがした。(10月にノベライズ版が出るのでシナリオについては確認するつもりではある。)

 というわけでシリーズ最終作としては少し物足りないと思わずにいられない。

 

 

 

あと、今年のTGSでシナリオについて触れたりするのだろうか。